WILD FRONTIER 2

 力の指輪すべてを手に入れるべくエレギオンに攻撃を仕掛けたサウロンは、すべての指輪中最大の力を持つ三つの指輪を作った金属細工師ケレブリンボオルを捕らえ、拷問の末、殺害。
 オークの矢に貫かれた彼の遺骸を柱にくくりつけ、幟に見立てて掲げながら、救出に来たエルロンドの軍に攻撃を仕掛けた。

 強大なサウロンの軍勢の前に、エルロンドの率いる軍は敗走を余儀なくされ、エルロンド自身は、彼の捕囚を強く望むサウロンの命令を請けたオークどもの執拗な追跡により、次第に追い詰められていた・・・
 
 
 足元に突き刺さった矢を避け、エルロンドは素早く走る方向を変えた。
 しかしその選択は、退路を失くす結果となった。気付いたときにはすでに遅く、厚い衝立のような岩盤を背に、エルロンドはオークどもに囲まれていた。
 剣ではなく、オークどもの手がバルログの火の鞭のようにエルロンドに襲いかかってきた。
 それを剣で薙ぎ払いながら、退路を求めて走るエルロンドの身体を何本ものオークの腕が掴み止める。
 複数のオークに押さえ込まれそうになるのを、掴んだ手を切り落として逃れる。しかしオークどもの手は、腕から切り落とされた後もエルロンドの身体を離そうとはしなかった。
 しだいに数を増すそれに、エルロンドの動きが鈍くなる。ついに髪を後ろから掴まれ、そのまま引き倒されてしまった。
 身体を押さえ込むオークどもを跳ね除けようと身をよじるエルロンドを嘲笑うかのように、いくつもの手がエルロンドの身体から自分たちの同胞の血に汚れた鎧甲冑を剥がしだす。
 剣を持つ手はひと際大きなオークに踏み付けられて、びくとも動かない。
 ざらついたオークの指が直に肌をなぞる感触に、思わず寒気がした。
 
 ひゅん!・・・と。風を斬る音が聞こえた。
 自分を押さえ込んでいたオークどもの身体が、消し飛ぶように薙ぎ払われるのを、エルロンドは目を見張って見ていた。
「ご無事ですか!エルロンド卿」
 輝く黄色の髪を光臨のようになびかせて、グロールフィンデルが剣を振るっていた。
 その一振りごとに、何匹ものオークどもが風に掃われるように倒れてゆく。しばらく後、辺りは倒されたオークどもの死体で埋め尽くされていた。
 戻った静寂の中、グロールフィンデルは乱れた息を整えるようにひとつ大きく息を吐くと、手にした剣を振って血を掃い、鞘に納める。
 そして、その様子を声もなく見つめているエルロンドに向けて微笑んだ。
「遅くなりました・・・」
 言葉と共に身を起こしたエルロンドに歩み寄り、切り取られても尚、その身体に掴みかかったままのオークの手を取り除いてゆく。
「もっと早くお傍に来られれば、こんな目には・・・」
「いや・・」
 エルロンドは小さく息を吐く。
 グロールフィンデルだけでも無事に逃がそうと、わざと離れたのだ。
 そしてやはりオークどもの狙いは、あくまで自分ひとりなのだと・・・そう実感していた。
 しかも殺すのではなく、捕らえようとしているらしいと気付いた。
「貴公は・・・大丈夫か?」
「私の事はお気になさらずとも結構です。貴方さえ無事なら、それで十分です」
「しかし・・」
「ああ!」
 エルロンドの言葉を遮るように、グロールフィンデルが声を上げた。
「オークの血がこんなに・・」
 黒い血が、エルロンドの身体のそこここを汚していた。剥がされかけ、捩れ歪んだ甲冑の下の肌にまで痕を残している。
「なんという・・・」
 グロールフィンデルの指が、微かに震えながらエルロンドの顔を汚す血を拭ってゆく。
「・・・金華公・・」
「グロールフィンデルと・・」
 指が躊躇いがちに頬を伝い、唇の形をなぞって離れた。
「さあ、早くこの場を離れましょう。どこか泉か沢でオークの血を洗い清めて、身体を休めなければ」
「ああ」
 グロールフィンデルに支えられ立ち上がると、エルロンドたちはその場を後にした。
 
 微かな水音を頼りに見つけた泉は、水晶のように澄んだ水を豊かに湛えていた。辺りは潅木に囲まれ、巧く外敵の目から隠してくれそうな場所に在った。
「ここならしばらくは大丈夫でしょう。あの雑木の陰には褥の如き柔らかな草が覆っていて、横になるには十分な広さがあります」
「そうだな」
 ほっとしたように息をついて、エルロンドは応えた。
 捩れ歪んだ甲冑をなんとか脱ぎ捨て、泉へと身を沈める。清い水の冷たさが、オークの血に汚れた身体を清浄にし、心地よかった。
 グロールフィンデルは甲冑だけを脱ぎ、泉の中には入らず、腰に剣を帯びたまま畔に膝をついて身体を清めていた。
 バルログとの果し合いを、多く詩に歌われている戦士の名に恥じることのない、鍛えられた無駄のない身体だった。
「なにか?」
 自分を見つめるエルロンドの視線に気付いて問いかける。
「いや・・・」
 応えながらもエルロンドは、グロールフィンデルを見ていた。
 再び目で問いかけるグロールフィンデルに、エルロンドは視線をはずした。
「気に障ったのなら、謝る。ただ・・・貴公はマンドスの館から戻られた者ゆえ・・・」
「ええ」
「マンドスの館とは・・・どの様なところなのか、と思って。いつでもこちらに戻って来られるのだろうか?」
「ええ・・魂が十分に休息をとり、身体さえ元どおりになれば」
「そうか・・」
 ため息のように、エルロンドは息を吐いた。 
「どうかしましたか?」
「ああ・・・」
 エルロンドは先刻の戦いのあった方角に目をやった。
「今は心も無いようなオークも、その昔はエルフだったと聞く。激しい拷問によって、その姿を変えられてしまったのだと。彼奴らは死んだ後どうなるのだろうか・・・その魂は、未来永劫救われる事は無いのだろうか」
「大丈夫ですよ。死して後、彼らの魂は醜いオークの身体を離れ、必ずやマンドスの館で休息をとっている事でしょう」
「そうか・・・」
「そうです」
「そうか・・・」
 エルロンドの声は途切れ、その後に続いたのは押し殺した嗚咽だった。
 グロールフィンデルの作る細波が水晶のような泉の水面を渡り、エルロンドの傍らで止まる。
「卿・・・?」
「気にしないでくれ。少しばかり疲れておるのだ」
 安心させようと微笑んだ瞳は、涙で曇っていた。
「・・・私も捕らえられたら、あの様になるのかと・・・」
 エルロンドの呟きが、水面を渡ってグロールフィンデルの胸に直に響く。
「彼奴らは私を殺そうとはしなかった。サウロンは、私を捕虜にする気らしい」
「・・・・・」
「初め、サウロンがもっともらしい外見で、自ら贈物の王を称してリンドンを訪れたとき、私はギル=ガラドと共に彼奴を疑い、入国を許さなかった。その恨みをはらそうというつもりだろう」
「そんな事はさせません!」
 グロールフィンデルの力強い声が、耳元で囁かれる。
 驚いたように上げたエルロンドの白い貌を、濡れた髪が夜明け前の空のように光を含んで黒く縁取っていた。
 グロールフィンデルは、エルロンドの頬にかかった濡れた髪をそっと指でかきあげると、そのまま顎を支え、額に唇を触れさせた。
 エルロンドは逃げることもなく、それを享けていた。
 暖かく柔らかな感触に、懐かしさすら感じる。
 そのまま唇はまぶたに触れ、頬をすべり、エルロンドのそれに重なる。しばしその柔らかさを堪能するように留まると、そのまま顎をなぞって項へと移っていった。
 わずかに身を引こうとしたエルロンドの身体は、すでにグロールフィンデルの腕にしっかりと抱きとめられ、逃れる事はできなかった。
「あ・・・」
 鎖骨の窪みに触れた唇の熱さに、思わず声がもれる。
 泉の冷たさに慣れた身体には、自分を抱くグロールフィンデルの身体がひどく熱く感じられた。
 水晶のような泉の水面に立つ細波が、キラキラと光を弾いて綺麗だと・・・
そうエルロンドは、熱に呑みこまれゆく意識の中で思っていた・・・
 
 
 雑木の陰の草の褥に、エルロンドはうつ伏せに身を横たえていた。その背中にはオークとの戦闘によってできた傷がいくつかある。それを慰撫するように、傍らに膝をついたグロールフィンデルの指が撫ぜていた。
「大丈夫。今に援軍がやってきます。それまでは私が命を賭してお護りしますゆえ、ご安心下さい」
「何ゆえ・・そこまで」
 エルロンドは身を起こすと、驚いたようにグロールフィンデルの顔を見返した。
「私は貴方のものだと・・・そう、お伝えしたはずですが」
 しっとりと濡れた、光り輝く黄色い髪をかきあげて、グロールフィンデルは笑みを向ける。
「・・金華公」
「ちがいます」
「ああ・・・」
 エルロンドは困ったような、呆れたような笑みを浮かべた。
 この者は何度振り切っても、必ず傍に戻ってくる。それならば、せめてその義の心に報いられる者であろうと・・・・
「では、よろしく頼む。グロールフィンデル」
「慶んで!」
 晴れ晴れとした笑みを浮かべるグロールフィンデルの顔を、エルロンドは眩しそうに目を細めて見返しながら微笑んだ。
 
 
― End ―